シューマンとショパン
両者は同い年で、今年生誕200年で随分取り上げられています。
もちろん、取り上げられる頻度はショパンの方が圧倒的ではあります。
そのショパンに関する著作物が何冊も出版され、かなり読みました。
シューマンはショパンの「ドン・ジョバンニ『お手をどうぞ』の主題による変奏曲」を評して「諸君、脱帽せよ、天才だ!」と書いたことはつとに有名です。
変奏曲のひとつひとつに、それはそれは具象的な情景をあてはめて評論したところ、それを知ったショパンは「このドイツ人の想像力には死ぬほど笑った」と、驚くべき冷淡な感想を手紙に残しているそうです。
さらに後年、シューマンの「謝肉祭」については、曲の中に「ショパン」があるにもかかわらず、当のショパンは「こんなの音楽じゃない」と友人に語ったとあります。
ショパンの曲の中には、例えばバラードは元となる詩があったと言われています。しかし、音楽は別にその詩をなぞって作られたわけではなく、あくまでインスピレーションを得た、という次元だという説が普通のようです。
その意味では、コミック「ピアノの森」で、雨宮がショパン:バラードの情景を父親に語るのは、やや筋違いといえるかもしれません。
岡田暁雄氏のベストセラー「音楽の聴き方」では、音楽とその言語的受け止め方、ということについて述べています。
言葉による音楽のイメージ化が、案外大切だ、と。
しかし、言語はあくまで音楽にたどり着くための方便であって、言語的表現そのものが音楽とイコールでないことは言うまでもありません。
シューマンは一生懸命、言語的にショパンの魅力を表現してショパンにラヴコールを送ったものの、ショパンにとっての音楽は、簡単に言語化やイメージ化できるような代物ではなかったようです。
音楽は音楽である。
これらのエピソードをもって、ショパンがシューマンより優れている、と言いたいわけではありません。
こういうエピソードに、ショパンとシューマンの異なる芸術的特性が端的に表れている、と思うわけです。
他のクラシック音楽作曲家たちも、ショパン的に音楽を作る人と、シューマン的に音楽を作る人に、概ね二分されるような気がします。
あまり感心できることではないのですが、数日前、ちょっと気分がむしゃくしゃして、ピアノでなぜかシューマンを弾きたくなり、「謝肉祭」の終曲「フィリシテ人と闘う『ダヴィッド同盟』の行進」を弾いてみました。
といっても、ほとんどまともに弾けないので、左手は添える程度で、主に右手だけを”狂ったように”ガツガツと弾いたならば、なんだか、ぴったり気分にはまってしまいました。
あの小節線を無視した、本来の拍子とずれたリズムの取り方と、セカセカとフィナーレに向かうスピード感が、むしゃくしゃした気分に、ちょうど合ってしまったようです。
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