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2009年7月15日 (水)

ピアノの響きについての一考察

昨日もビスの弾くピアノの響き具合について、ついつい感想が及んでしまいました。

自分の過去の記事を振り返ると、やれ音色だの、響きだの、透明感だの、どうもいわゆる「ピアニスティックな音の美しさ」を求めている自分がいるような気がしてきます。

「音楽」を聴いているはずなのに、単に「音」を聴いていやしないか。
そんな不安が、ふとよぎったりします。

では、音楽は音の響きと無関係かといえば、そうとも言い切れません。
音楽は音を鳴らすことによってしか表現できないのですから、その鳴らしかた、音の出しかたに音楽が宿っていると
考えることも、間違ってはいないでしょう。

過日、クリスチャン・ツィメルマンのリサイタルを聴いたとき、プログラムの中に彼のインタビュー記事が載っていて、そこでとても興味深いことを話していました。

「私は実のところピアノを演奏しているのではなく、音楽を演奏している。ピアノはさほど興味をそそるものではない。私はピアノに興味を抱くことから始めたが、それは問題点を取り除いて消してしまいたいと思ったから。最高のコンサートとはピアノのことを考えないときです」

さて、ツィメルマンのこの意外ともとれる発言と、似たようなことを言った芸術家が過去にもいます。
グレン・グールドです。
「グレン・グールド発言集」という難解な本の中に、こんなグールドの一文があります。

「前提の第一は、ピアノを弾いているという事実を忘れることです。頭の中で思い描いた構想を実現させるのに、何でもピアニスティックに考えるのは反対です」

グールドはベートーヴェンの初期と後期のソナタには価値を認めていますが、中期の一般的に名作といわれる「熱情」や「ワルトシュタイン」の価値は否定しています。
それは、ベートーヴェンが「ピアニスティック」なことに囚われた曲にしてしまったことだからだそうです。

音楽は身体や精神に内在するもので、それを表現するのにピアノは実は邪魔なのだ、とでもいう、ピアニストでありながら何とも逆説的な感覚。
それを、グールドとツィメルマンはともに持っていることになります。

それでありながら、2人の演奏は全く対照的であることに驚きを感じざるを得ません。

ピアノをメカも含めてパーフェクトにコントロールする(2人ともピアノをいじるのが大好き)、という点は同じであっても、そこから出てくる音は、ツィメルマンの場合この世のものとも思えない美しいピアニスティックな響きであり、グールドの場合は骨組みだけにそぎ落とされた乾いた音です。

そして、そのどちらもが、音楽的な魅力に満ちている。

響きがあろうが、なかろうが、結局、音楽を表現できる人はできるという、つまらない結論になるのでしょうか。

さて、わがヌーブルジェはピアノからさまざまな色彩を表出するのに長けています。
ピアノの音色を通じて音楽を表現するタイプだと思います。
最近のインタビューで、いろいろなピアノを弾くのが好きだと言っているように、ピアノにこだわるグールドやツィ
メルマンとまた違った感性を持っているようです。

ピアノのいろいろな可能性を引きだしながら、そこにしっかり音楽も存在している。
とすると、かなりスケールの大きなピアニストであるのかもしれません。

また、ファンの身びいきですかね^^;

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