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2009年7月 3日 (金)

クラッシック音楽を聴くということ

最近出版された、中公新書「音楽の聴き方」(岡田暁生著)という本を読みました。

主に「クラッシック音楽を聴く」ということは、どういうことなのかを深く考察したもので、やや難しいものの、とても示唆に富んでいて、読み応えがありました。

音楽、特にクラッシック音楽には「型」があり、聴衆は自然とその「型」を意識した聴き方をしている。その「型」を知るということは、その音楽が生まれた文化を知ることである。

「型」をまったく知らない者が、いきなり型のある音楽を聴いても、単なる音の羅列としか聴けず、音楽として聴けないこともある。
また、音楽的感興は、それを言語化する作業を伴う。
音楽はただ感ずるだけのものでない。

とまあ、こんな感じなのですが、実際に読むのが一番です。

やや抽象的なので、もう少し具体的に書きます。

まず「型」とは、やれソナタ形式だの三部形式だのという、楽曲の形式のことだけを言っている訳ではありません。
伝統に培われた約束事、というようなものも含みます。

例えば、ドレミファソファミレド、と弾くとき、作曲家による指示がなければ、ドレミファファミレド、と軽くクレッシェンド、デクレッシェンドして弾くのが普通です。
また、楽章の終止は、リタルダンド(だんだん遅く)の指示が仮にないとしても、幾分、遅くしながら終わります。

また、ピアノやフォルテの指示というのはあくまで相対的なもので、ある箇所のフォルテと、別の箇所のフォルテが同じ強さとは限りません。あくまで、前後関係で決まってきます。

こういうことは、楽譜を見たところで細かく指示されているわけではなく、約束事として弾くものは解釈するし、聴く方も意識的、無意識的にそういう約束事にしたがった聴き方をしているわけです。

ですので、たまに演奏家が、その約束事を破った演奏をすると、それが違和感だったり、逆に新鮮味だったりします。
ヌーブルジェの先日のハンマークラヴィーアの演奏は「ベートーヴェンは深刻であるべき」という約束事があったとすると、それを打破した新鮮な解釈だったと思います。逆に、それが許せない人もいたかもしれません。あんなものベートーヴェンではない、と。

最初、よくわからなった曲が聴きこむにつれ、だんだんわかってきて、最後は大好きになったりすることがあります。
聴く「型」ができてくるのですね。
私が苦戦した先日のブラームスの第2ソナタの第2楽章を例にとると、初めて聴いたときには、あれが変奏曲形式であったとは、ほとんどわかりませんでした。音の羅列にしか聞こえない。断片的な旋律が次々に脈絡なく流れているようにしか感じない。
第3楽章との区別もつかない。

ところが、だんだん聴き慣れ、さらに楽曲解説などを読んで勉強をすると、変奏曲の型がみえてくる。
なるほど、このテーマが、こうなって、ああなって、と。
さらに、最後楽譜を読んだら、完全に曲が頭にはいりました。
その状態でヌーブルジェの演奏を聴いたら、もう感激でした。

さらに、最近ピアノを習い始めたところ、先生からいろいろ言語化された音楽の表現法を教わっています。
「そこは教会の中で音が敬虔に響いている感じ」
「このフレーズとこのフレーズは兄弟で、こっちの方が偉いのよ」
「ここはあなたが右手にならなければなりません」
などなど、レッスンを受けていると限りがありません。

ちょうど、このような体験をしたので、この本がおもしろく読めたのかもしれません。

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